ここでは、絹の歴史と群馬との深い関わりについて知ることが出来ます。
日本に養蚕技術が伝わったのは、弥生時代の中頃だと言われています。
群馬県では、古くから養蚕が行われていたと推定されていますが記録上明らかにされているのは奈良時代になってからです。江戸時代になると国内産の生糸の需要も高まり、農民たちの養蚕へ関心は大きくなっていきました。そこで「蚕書」と呼ばれる養蚕指導書が盛んに作られました。また、それらは翻訳され海外でも発行されています。これはおそらく日本の技術書として最初に外国語に翻訳されたものと考えられています。
幕末から明治にかけて、大きな課題となっていたのが、蚕の病気対策や飼育方法の改善でした。日本政府が最初に始めた蚕の研究は蚕病防除の研究でした。群馬県内では明治2年、永井紺周郎が「いぶし飼い」を考案し、明治5年には田島弥平が「清涼育」を発表し風通しを良くすることが大切であると教えています。さらに、これらの飼育法の長所を取り入れた「清温育」を高山長五郎が明治16年頃に完成させました。群馬県外で養蚕を営む農家ではこうした飼育法を取り入れ、蚕の飼育環境に適した構造の蚕室兼用の住宅が建てられるようになりました。
このような養蚕の長い歴史について写真や書物の現物などを見ながら学ぶことができます。
正徳3年上州は全国的に有力な養蚕地帯に成長し、県内各地で市(いち)が盛んに開かれるようになりました。そして上州の絹・生糸は中山道や下仁田街道などの陸路や利根川の船運により各地へ運ばれます。
西毛では、高崎・藤岡・富岡を中心に「絹市」が開かれていました。東毛では、桐生・大間々・境を中心に「絹市」が開かれていました。
安政の開港後に、生糸は外貨を稼ぐ最も有力な輸出品となり、古くから養蚕地帯であった上州にあっては、日本有数の輸出品の供給地として、日本はもとより世界からも注目されました。ヨーロッパでは、良質な生糸のことを「マエバシ(前橋)」と呼んだといわれていました。そして上州生糸を横浜に運んだことにより、多くの上州商人たちは横浜経済を支配するほど隆盛を極めました。
前橋藩士は速水堅曹は、日本で初めてのイタリア式の製糸器械を導入し、スイス人ミュラーを招き、明治3年前橋市岩神町藩営製糸所を設立しました。廃藩置県によって2年余りで閉鎖となってしまいましたが、この製糸所は日本最初の洋式機械製糸所であり、製糸業近代化の草分けとなりました。
設立は明治5年です。製糸場設置の基本構想は東京からあまり遠くない養蚕地帯を原則として、洋式器械をフランスから導入したものでした。フランス人を指導者とし、日本各地から伝習工女を募集して新技術を習得させることにしました。外国人指導者にフランス人ブリュナ氏がなり、建物の建設はバスティアンの設計図に基づき明治4年の初頭より始まりました。主要の資材は大規模の構造物に耐え得る大量の礎石、木骨レンガ造りの軸木や梁材となる木材、カーテンウォールとする大量のレンガと、その目地にするセメントおよび大量の屋根瓦等でした。明治5年2月に政府は工女募集を各方面に布達しました。明治5年10月4日に富岡製糸場は操業を始めました。
その後、民営化されてからも一貫して製糸を行い、昭和62年まで115年間製糸工場として操業されました。
日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものに変えました。その普遍的な価値が認められ、富岡製糸場は、平成26年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、3つの養蚕に関わる資産(田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴)とともにユネスコ世界文化遺産に登録されました。
もうひとつの官営工場、新町屑糸紡績所。明治10年に設置されたものですが製糸に適さない繭やくず糸を絹紡糸に紡ぐ「紡績」工場です。日本人の手で建設された日本で最初の機械化された先進的な大工場でした。
座繰り製糸は上州座繰り器という道具を用いて糸を挽き出す製糸法をさします。明治時代の上州では、日本で初めての洋式の器械製糸の導入を試みましたが、明治期中は、品質別に生糸を揚げ返す(巻き直す)ことで座繰製糸を改良した「改良座繰」を中心に発達しました。